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留学物語-父は東大ぼくはニュージーランドその10 母の涙

(その9 6月18日掲載)
成田空港からオークランドまでニュージーランド航空90便の所要時間は10時間30分、水平飛行に移った機内で、頬をつたわってこぼれおちていた涙がおさまり、日本での日々を思い出した。留学を考え、それを実行に移すまでにしたのは両親のぼくに対する思い入れだった。単身で留学することを思いつかなかったぼくには、自力で留学を実行する力はなかった。両親の思考のやわらかさと行動力には感謝している。
母はあまりものごとにこだわらない。楽天的な性格だ。父と母はインターネットで高校生の留学に関するデータを集め、電話やメールでさらに資料を検討し、最後に留学会社を訪問した。実はあとからコンサルタントのサイトーさんから聞いたのだが、母は彼とぼくの日本の学校への不適応について話しているときに何度も目を潤ませていたそうだ。ぼくの前では涙を見せたことのない明るく陽気で、楽天的な母だが、サイトーさんからの話は意外だった。
父と同じように母も自分を責めていたのではないだろうか。しかし、両親が自分自身をいくら責めても、出口が見つからない。学校への不適応について、ルール違反をしているのはぼくだから、親子で学校を相手に勝ち目のない戦いをしていたのだと思う。勝ち目がないとはっきりわかっていた。しかし、両親はぼくに日本の学校に妥協することも協調することも強いなかった。もし、そうしていれば、ぼくは家を出たと思う。母はすべて解っていたから、悩んだのだろう。
家族で海外生活していた時は、そこに適応する術を学べば良かった。家族は団結できた。しかし、母国での高校生活はぼくと家族が団結するテーマが見つからなかった。学校は受験に向けて、一直線に生徒を指導し、それに疑問を持てば、異端児となり自然に自分の「場所」がなくなるようにできていた。ぼくのこころは活発に日本の学校に反発していた。
ぼくはとても学校が望むような生徒にはなれなかった。行き着くところは退学であることは明らかだった。それがわかっていても、海外でサバイバルを身に付けたぼくは、冷静に考える前に、からだが反応してしまう。ぼくの両親は学校に呼び出されるようなことはなかった。学校の価値観、先生たちの人となり、生徒を管理する人たちの大きなうねりの中を、ぎりぎりのところでかわしてくれていた。ぼくも先生には反発したけど、ぎりぎりセーフという状態。
日本に戻ってきて学校生活での歯車がかみ合わないまま時は流れていた。そして自分が解らなくなるのが怖いから、はじけている連中と遊んだ。小さな世界だったが居心地がよかった。大きな世界はどうでも良かった。小さな世界で泳ぎまわっているぼくを見ていた母の涙。ぼくは飛行機のなかでやっと、自分の奔放さや勝手さを自覚するようになれた。しかし、日本にいた時、母に「こんな生活はもうやめて」と言われたら、家を出てしまったと思う。そして、「どうなるか」と考えないから、出てしまえたのだろう。とても勝手だし、わがままだ。でも、意思と感情が平行線。
留学という選択肢は両親にとっての唯一のぼくへの救済策だった。

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