教育の目標
戦後、日本の好景気を支えてきた日本製のさまざまな物づくりから、
経済は知識労働へと大きな転換をしてきました。
世界的に競争力のある高い品質のものを大量に生産するには、
それを作る人たちの制作技術がとても大切になります。
高度な技術そのものが評価され、またその人たちにとっては、
より高く、より早く、より正確にという総合技量が、仕事の目的になります。
それが成り立つ日本は、アメリカやヨーロッパの国々がそうであったように、
80年代で終了したといっても過言ではありません。
その時代にあっては、「仕事」といえば、良い製品を生み出すことが
仕事の目的であり、そのための教育をみな当然と受け止めていました。
組織に入って、そのなかで自分の役割に徹し、和をもって尊しとなすことが、
自己および自己の貢献する「会社」の目的と成り得るわけです。
日本よりも20-30年も前に、アメリカでは、生産労働から知識労働へと
世の中がシフトしていきました。
社会での主たる仕事の中身が変化したことで、
当然、それに従事する人たちの意識にも劇的な変化がなければなりません。
「知識労働者がその生産性を向上するために、最初に行うこと、それは行うべき仕事の内容を明らかにして、その仕事が何であり、また何でなければならないかを明らかにしなければならない」とピーター・ドラッガーは自己の著書のなかで述べています。
生産するモノが、形あるものから、形のないものに変化したのですから、
当然のことといえます。
ところが、その構造を担う若い世代は、現場に出るギリギリまで、
旧体制の価値観や意識から解放されることがないようです。
教育は、大人になるまでに、知っておくべき知識の体系といえますが、
その知識とは、一体、学ぶ側にとって、その人たちの人生に
どのような役割を果たし、その目標はなにであるのか、
その答えを学ぶ側に伝えることが、教育の根本とはいえないでしょうか。
どこの大学に何人合格したということを、ボーディングスクールでは、
それほど重んじることはありません。
それよりも、生徒の好奇心、挑戦する心、スポーツ、芸術、音楽などに
彼らは大きな関心を示します。
中学生になり、少しずつ自我が目覚めるころ、
彼らが受けている教育の目標についての多様な説明がこれからは、
必須に思います。
知識を暗記することの競争は、すでに機械にその多くを任せることが
できる時代になっています。