ニュージーランド一年留学 - 日本の学校との違い
一年間留学をしている生徒三人から現地での様子を聞きました。
同じ学校で学ぶ生徒たちですが、それぞれの個性的なコメントがとても
印象に残りました。
日本の学校での成績が良かった生徒のコメントは、ニュージーランドで、
「全然勉強していない」という衝撃的コメントからスタートしました。
―それは、自分の思ったようには英語が伸びていないということかな
「まあ、日本で想像していたのとは全然違います」
―英語で話せるようになりましたか
「最近は、感覚でなく話しができるようになりました」
―生活はどうですか
「友だちを作るのが難しいですね」
―そうだね。ニュージーランドの田舎では、アキハバラに興味を持っている地元の生徒などいないでしょう。待っていても、誰も来ない。英語では勝負できないから、スポーツや音楽、アートなどから友たち作りを進めてみたらどうかな。
「はい、こちらの学校は日本とはぜんぜん違います。みんな、自分で勉強するものを選択しています」
―日本にいた時よりも考えさせられるでしょう。日本では、「選択」が無いような気がする。学校では、時間割は決められているし、大学も何がやりたいから行くのではなく、偏差値によって行ける大学に行く。そして、最後は、何がしたいという選択でなく、出身大学という偏差値で就職が決められる。
今、勉強だけでなくて、自分について、今後について考えるきっかけがそこで作れればいいね。
「はい、そうします」
日本の高校に比べて、ニュージーランドの高校三年間は選択の余地が
たくさんあると思います。
どこで、何をやるかということを考える余裕があると思います。
日本では、高校時代というのは、一つの大きな流れがおのずと決まっていて、
そこに乗れれば、安泰と考えられているのではないかと思います。
その流れの本質は、ベルトコンベアーのような仕組みになっていて、
乗れば運ばれていくという概念です。
乗るまでが大変で、乗ってしまえば楽になると信じられていたと思います。
なるべく早いうちに、そのコンベアーに乗ってしまえば、あとはお任せで
機能するという仕組みを疑ってみることはない。
しかし、その構図はかなり激しく崩れようとしています。
すでに、社会ではそれが崩れて久しくなりました。
会社に終身の雇用を願う人は稀でしょうし、入社してしまえば、
安泰と考えるような企業風土はありません。
しかし、中等教育機関においては、「学校にお任せ」がむしろ強まる傾向に
あるのではないかと思います。
それを維持させるための唯一の条件が、「勉強すること」なのですが、
ニュージーランドの生徒たちは、日本の生徒ほどに勉強熱心でないために、
勤勉生徒にとっては、大きなインパクトなのでしょう。
学校の在りかたに疑問を持ち、自分を見つめ始めた生徒に私は、
希望や夢を考えること、偏差値でなく、自分の内部に自分を計り、
決めるという基準を持つことを、留学で学んでほしいと思っています。