留学生の柔軟思考 → 競争心と独創性3
土曜日のブログに続きます。
日本で偏差値や学内の順位による競争のなかで、自分を確認してきた
子どもたちが英語圏に留学すると、当然のことながら、
学習面では、自分を見失います。今までの教育的ものさしが
機能しなくなるわけです。
彼らは、その新たなる環境のなかで、自己確認の方法を
ゼロから模索し始めるわけですが、その作業は「独創性」を
磨かざるを得ないと言えると思います。英語という新たな
コミュニケーションのツールを使いこなせない以上、それが必然です。
独創性は、学習して習得できるような種類のものではないと思います。
それよりも、「必要」が生む自己表現、
自己保存のための必然などと考えられるでしょう。
日本では、想像もできなかった状況、環境のなかで、
子どもたちは、独創性という言葉とは無関係に、「必死」に
適応する術を考え、そのなかのいくつかのことを実行し、
うまくいったものを更に追及するという作業を繰り返してゆきます。
一般には、語学に興味があり、社交的で、どこにでもすぐになじめる
といった子どもが留学に向いていると思われています。
しかし、私の経験では、「英語は得意でなく」、それほど「積極的でもなく」、
自分の家から離れた経験もないような小・中学生が留学をします。
「その子たちはどうやって英語を学ぶのですか」
厳密には、彼らが半年ほどで生活英語を習得するその経過は
私もさだかではありません。しかし、現実として、彼らは
現地の学校を退学処分にさせられるほど、意欲のないような
生徒はいません。
私はこのこと、そのものが彼らにとって立派な独創性と言えると思います。
彼らの属している「社会」は、まだ大きなものではありません。
また、彼らが相手にしなければならない社会、制度も大きくは
ありません。ゼロからはじめて、そこで生きてゆける、
広義な意味で、これはかれらにとって貴重な独創性のたまものと
言えるのではないでしょうか。
今までマジョリティー(多数派)だった環境から、
マイノリティー(少数派)となり、沈黙のなかから立ち上がる、
独創性を発揮せざるを得ない環境はそこにあります。
少人数のクラス、考え方を求められる授業、先生がリードするのでなく、
生徒たちが、自分の課題と取り組み、考え、調べて結果を出すという考え方。
そんな世界に飛び込んで、素直に溶け込むことができる、
私はそこに、子どもたちの生きる力の原点を見ます。
今までに何百回と聞いたお母さん、お父さんからの意見、
「結局、親が子どもにできることは、お金を出すこと」、
それを聞くたびに、私は親の言い知れない子どもへの愛情とおもいを
私は直観します。
独創性は、留学がもたらせる子どもたち一人ひとりの可能性であると
思います。