2026/05/02 非認知能力をどう活かす? 非認知能力を育む

実践=非認知能力UPとは限らない?
最近、教育の領域において「非認知能力」という言葉が非常に注目を集めている事はお子様を持つご家庭であれば感じているところだと思います。
最近では、「非認知能力」の重要性について説く教育本も多く出ているので、私も定期的にチェックをしています。特にこの分野においては教育経済学者の中室牧子先生の本が非常に分かりやすく、エビデンスに基づいた解説をされていらっしゃるので参考になるのでは無いでしょうか?
ここからは、私のプロフェッショナル領域である、日本人のボーディングスクール受験と合わせの考察と対策について少しお話をしてみたいと思います。
さて、まずは非認知能力についてよく分からない方もいらっしゃると思いますので簡単に一言で説明すると以下のようになります。
「忍耐力」「自制心」「社会性(協調性やリーダーシップ力)、自尊心などの、テストなどの偏差値やスコアでは数値化しにくい(外部からは認知しにくい)内面的なスキルことを言います。
先述した中室牧子先生の本ではこの能力がテストなどの短期的なスコアメイクではなく、長期的且つ、持続的に効果が持続する能力であり、将来的な子供の伸び代(社会的地位や収入)に関わっていることをいろいろなエビデンスをもとに述べていらっしゃいます。
日本の教育においては、事あるごとに極端に「暗記」に偏った教育の問題点が指摘されていました。インターネット、AIという時代を迎えて、単なる「情報」が瞬時に調べられるフェーズから、調べられるだけでなく「ある程度までリサーチしてくれる」フェーズに移行した現在において、暗記力、暗記量を比較して生徒を評価する事については無意味になりつつあります。
日本においても2020年初頭から、詰め込み教育からの脱却を図り、自らの課題を見つけ、課題を解決する力を身につける「生きる力」を目的とした「探究型学習」の導入がこのタイミングから本格的にスタートしたのは決して偶然ではないでしょう。
さて、問題はここからです。私は日本人(日本に文化的なバックグラウンドを持つ)生徒に特化したボーディングスクールの留学アドバイス、受験サポートをしている立場からいろいろな視点から「日本人」を考察していますが、非常に面白い特性を持ち合わせています。
それは何か?
あらゆる物事を「手段」→「目的」への変換してしまう癖。
私が良く友人との軽口で話す事で例にしてみるとこんな感じでしょうか。
このブログを読んでいただいている方々は小学生のお子様を持つお父様、お母様が多いので、分かりやすい例としてあげると「残業」もそうの一つでしょう。
日本における残業は本来の目的は「終わらない仕事を片付ける」事の一つの手段だったはずにもかかわらず、いつしか「残業をする事」自体が目的になっていきました。
日本の会社の会議もそうでしょう、会議とはそもそも情報共有のための手段だったものがいつしか、会議をする事自体が目的になってしまう。挙げたらキリがありませんね。
近年では、コロナの頃のマスクの客観的な有用性よりも「マスクをする事」が個人個人に課せられた責務のようになっていたことを思い出します。これも本来は「手段」だったものがいつしか「目的」になってしまった例と言えます。(決して、マスクの有用性を否定するものでははなく、議論や話題のフォーカスがすこしづつズレていく様を間近に観察できた好例として挙げてみました。)
話を戻しましょう。「非認知能力」「探究型学習」これらは方向性としては正しいと思います。考える力を養う事は先の読めないこの世の中においては生きる力に直結するスキルになります。
ただし、この評価基準については実はボーディングスクールの受験においては少なくとも10年以上前から合否に関わる重要な能力でした。私自身、私がサポートをするご家族、子供達が持つ、日本的な「受験対策」(これも手段が目的化した一つの例ですね。)のための勉強という凝り固まった頭をいかにほぐして、ボーディングスクール仕様に変換するのか?、毎日に用に考えていましたので、今の状況はデジャブにも似た感覚を持って、これらのワードを聞いています。
結論として、我々日本人は「認知できない人間力」を測る事については少し苦手意識があるようです。
私の予測ですが、「非認知能力」「探究型学習」が広く認知されるにつれて、これらに対して我々日本人の反応は以下のようになるでしょう。
・探究型学習で評価されやすい体験学習に参加させる
・非認知能力の「スコア」をあげるためのメソッドを学ぶ、対策するための塾に通わせる
・身の回りの生徒やご家族から「成果があった」という情報を得て、同じプログラムに参加させる
皮肉ですが、「非認知能力」を高めるための対策が「認知能力」を高めるための対策の枠組みで考えられてしまうのです。
以前ブログでも触れましたが、「体験格差」なる言葉についても私は否定的です。これについても全く同じ事が言えます。
体験の多さ、これはこの枠組みにおいては「認知能力」であり、どれだけ「探究型学習をこなしたか?」というアピールは全く意味をなしません。これこそ、我々日本人の特性の一つである、手段→目的の最たるものだと思います。
ボーディングスクールのアプリケーションにおいても同様のことが言えます。Achievementの枠をどれだけ埋められるか?極論を言えば、SSATのスコアでどれだけ取れているか? これの項目ついては大きなウィエイトを占めていない事は、ここ3年間の私の生徒たちのトップスクール進学実績を見ていても明らかです。
これについては、私の過去のブログでPhilips ExeterのAdmission Staffが来日した際の対話でも明確に語られています。
「非認知能力」を育む環境、それを評価する基準についてはやはりアメリカのボーディングスクールには一日の長があります。非認知能力の引き出し方は、生徒一人ひとり異なります。そしてご家族間での対話も重要な役割を持つ事になります。
アメリカボーディングスクールのアプリケーションプロセスとして当たり前のように行なってきたことが、やっと今日本においても注目されていることがとても喜ばしいことでもあり、同時に「手段→目的」とならないように注視もしていきたいと感じる今日この頃です。
ボーディングスクール受験をする子供たち、ご家族だけでなく、これから日本の教育における、「非認知能力」「探究型学習」において最大限の成果を出し、AI革命後の世の中を「生き残る」だけでなく、「活躍できる」人材に育てていくことが私の役割だと再認識するに至りました。




