日米教育文化比較 受け身から能動へ
日米それぞれの中学・高校教育の違いを比較検討し、そのメリットとデメリットを三回にわたって考えてきました。その中心に、教育を受ける生徒があります。たとえば、ひとクラス十名の学校が良いのか、あるいは四十名でも良いのかを判断するのは、教育を受ける生徒に他ならないと私は考えています。
四十名では多すぎるから、それを三年計画で半減させ、さらには教員資格制度を変更して、社会経験のある人材を教師に登用できるようにして、より少人数のクラスを実現させるように考えよう ― といった計画を実行するまで待つことができないので、いろいろな教育のあり方を知り、自分にとってのベストを選択しようというのが私の考えです。
日本に興味を持って、ヨーロッパ、アジア、オセアニアの国々からも留学生がやってきます。彼らが日本で学びたいという動機は様々あります。アニメなどのサブカルチャーが大好きな人、京都、奈良といった日本の古い歴史と文化に傾倒している人、親の仕事の関係で日本の学校で学ぶことになった人、いずれにしても、彼らは自ら考え、決断して日本で学びます。そして、自国との教育の差に驚き戸惑いながらも、一所懸命に異文化に対して適応していきます。
小学生までは、家族と一緒に過ごし、中学校になったら、教育の選択肢を世界に広げて考える、そうすることで高校、大学も更に広い選択肢の中から選ぶことができるというのが、私の考えです。
小学校から受験を準備する、一貫校に小学校から入学をする、学校での学習はほどほどに、塾を中心に受験にそなえるなどの教育の選択肢もあります。どの教育を選ぶか、その選択肢はこれからさらに増え続けると私は思います。制度やシステムが複雑化、細分化されるのは、今の成熟した国々においては必然的な流れであると思われます。しかし、大切なことは、それを受ける子どもたちは、複雑化、細分化とは関係なく成長するということです。
受け身の教育から、自分で考えて行う教育を中学、高校時代に実現することを私は、自分の使命としたく思っています。教育そのものはそれを受ける人にとっての人生の目的ではありません。それぞれの人にとってベストな人生を実現するためにこそ教育が必要になるわけです。教育がその役割を十分に果たせるためには、それを使いまわせる器量が人になければなりません。
日本における中等教育の本流は、知ること、学ぶこと、知識を増やして、大学に望むことにあると思いますが、これからは「自分」を知ること、学ぶこと、そして社会に出る準備を能動的に進めることにあると思います。