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留学物語-父は東大ぼくはニュージーランド その7 続留学という選択肢

(その6:5月28日掲載)
どうして、ぼくの友達は学校を退学しなければならなかったのだろう。ぼくの友達だけ、なぜ喫煙で重い処分を受けなければならないのだろう。ぼくにとって、彼らがいない学校生活は楽しくない、とても辛い。先生に抗議をする気にはなれなかった。結論はわかっていたし、友達が退学という選択を家族と一緒に受け入れたのだ、ぼくができることはとてもとても小さなことだ。彼らと会えない、寂しい、こころが空洞化してしまいそうだ。そして、ぼくは自分の生きている日本をも嫌いになった。夢とか希望とかを考える余裕はぼくにはなかった。学校を辞めるか、退学になるかは時間の問題だったと思う。
そんなとき、ぼくに留学を勧めたのは父だった。父は日本がすべてではないと言った。日本を否定していた自分に、父の言葉は救いだった。留学は親がぼくに与えてくれた選択肢だった。「日本でできないやつが海外でできるか」などと両親は言わなかった。ぼくの両親はとうに日本の学校にぼくが合わないことを感じていて、単身で留学する方法を考え、調べてもいたのだった。
何事にも楽観的であり、大雑把な母だったが、留学コンサルタントから日本の学校に適応しない生徒たちの海外での可能性を聞いたときには涙したという。ぼくは母が泣いたところを見たことがない。その母が泣いたと知ったとき、ぼくはいたたまれなかった。本来なら、母になじられ、自暴自棄になり、家庭内暴力におよび、父と刃傷沙汰の末に家を飛び出してもおかしくないのだ。ぼくの両親はぼくを愛してくれていた。でも、それをどうやって表現するのか、ぼくにはそんな余裕などなかった。
両親は、ひたすらぼくの愚行には沈黙していた。言いたいことは山ほどあったと思う。ぼくを責めたり、家に入れなかったりすることもできたと思う。でも両親はぼくに対して辛抱強く勝手にさせてくれていた。深夜まであそび、寝るためだけに家に帰っても、母は沈黙していた。父はドバイの仕事がひと段落してすこしのあいだ日本にいたが、ひたすら働いていた。
ぼくは留学を決めた。決めた以上早いほうが良かったので、いちばん早く入学できて、留学生の受け入れに積極的だったニュージーランドに行くことにした。ぼくの留学コンサルタントはサイトーさんという人だった。ぼくが今までみてきた大人のなかで、彼はどこにもあてはまらなかった。声がおおきく、まわりをはばからずに話す。人情家でおせっかいとは本人が言ったことだが、ほんとうかどうかぼくにはわからなかった。大人は自分の都合よい話をするから。サイトーさんは明治維新や70年代の世相、そして知識が豊富ではないが、ハードロック、とくにレッドツェッペリンの話をはじめると止まらない。ぼくは名前を知っている程度だけど、サイトーさんは「ツェッペリンのライブを武道館で見たんだ」といかにも自慢げにいう。誰でも「お金さえ払えば見られた」とは言わなかった。
サイトーさんは英語教師になりたかったそうだ。「なればいいのに」と思った。今度会ったときは、ぼくがきかなくても、「まあ、いろいろあってな・・・」とサイトーストーリーが始まるのだろう。
かれはぼくの父とほぼ同年代だった。彼は「お母さんを泣かせるようなことはするなよ。そんなことすりゃ、おれが許さない。お母さんを泣かせるやつは最低だ」といった。不思議な人だ。ぼくのことを良く知りもしないのに、なぜそのように言い切れるのだろう。サイトーさんは自分の性格を、いっぽんぎといっていた。ぼくにはないボキャブラリーだったが、これは単純という意味ではないかと思う。思慮の点ではぼくのほうが深いと思った。コンサルタントとしてスマートでない表現をサイトーさんは良く使った。  
つづく

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