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留学物語-父は東大、ぼくはニュージーランドその5

(その4:5月7日掲載)
ぼくの高校では、世間でいう、はじけている生徒の数は多くはなかった。はじけ始めると学校を去ってゆくからだ。はじける理由は山ほどある。でもほとんどの生徒は、はじけずにいる。どうして、みな毎日、退屈な授業に耐えられるのだろう。教科書の要点を先生がボードに書き、それを40人の生徒が書き写すという作業の繰り返し。それに耐えられる生徒は幸せだと思う。忍耐こそ成功の素と父に教えられた。耐えることと同じだと思けど、受験勉強をそのまま受け入れられる生徒も幸せだと思う。迷わないから。迷いのない人生が、楽しいかそうでないかは個人が判断すれば良いことだ。ぼく自身はアメリカという異文化の学校で多くを学んだので日本の学校のやり方をそのまま受け入れることは到底無理な話だった。耐えることや受験戦争を勝ち抜くということがぼくの幸せかどうか、ぼくにはとうていイメージできなかった。
ぼくの友達は個性的なやつが多い。個性的といえば聞こえがいいが、日本のハイスクール価値観で生きる人たちからみればわがままであり、勝手であり、扱いにくい生徒たちだ。彼らは自分の考えをはっきり主張する。納得しないと動かないから、協調性は乏しい。かれらはKYかもしれない。しかし、考えや意見を同じくすれば誰にでも賛同する。協力もする。目的がはっきりしている。意見が違ったとしても根に持ったりはしない。考え方と人格は区別する。ぼくは群れないかれらが好きだった。ひとりひとりがはっきりとした人格として認識できるから、ぼくのこころの中で彼らの像は簡単に結べる。お互いが持つ寂しさも理解する。そんな連中と良く遊んだ。楽しかった。学校になじめないぼくにとって友達はいわばフリースクール、学校の代わりのようなものだ。助け合うこと、遊びでも目的を共有すること、ぼくは友達からたくさん学んだ。学校から学んだもの?ほとんどない。「知識は誰が教えた」といわれそうだ。その知識は教科書に書いてある。「知っているか否か」が人間にとってそれほど大切だろうか。
コンピュータをたたけばすぐ回答がでてくることを、なぜ暗記しなければならないのだろうか。アメリカ人が絶対に使わないような、役に立たない文法の例外を、日本の高校生たちはなぜ必死でおぼえなければならないのだろうか。ぼくの友達も同じように考えていると思う。でも、ぼくは友達と受験とか、勉強の話はしない。話しても、だからどうしようという答えは誰も出さないとわかっているから。友達といると安心する。考え方が同じと口に出すわけではないけど、自然に彼らのところに引かれてゆく。取りとめもなく話した。音楽のこと、女の子のこと、服装、装飾、うまいお店、気になる人、気にしたいこと・・・。そして、ぽつりぽつりと友達たちはいろいろな進路を選択していった。
つづく

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